儀式的なことが好きな人なので、年度という区切りが結構好き。
てなわけで、一年を振り返ってみようかと思う。
ざっくばらんなものと、少し詰めて振り返るものの2つをしようかと思う。
最初に言っとくけど、長いよ。


と言う風にしようと思って、ざっくばらんに振り返れるformatを探そうと思い
そういえばやってた気がすると勝手に頭の中で思ってる人のところにいき
探そうと思ったが、あるのは月ごとに振り替えるものばかりでどこにも無く、
足跡ばかりついてまた「足跡だけついてて気持ち悪いです」とか言われるのかと
多少憂鬱になりつつ、しょうがないので月ごとにやろう。

1月
GEILの委員長にこの頃なった気がする。
京都に行き、大原にいい寺を見つけて気分がよくなる。

2月
このあたりから誰かと週3ペースぐらいで会いつつ、
OBに会ったりしながら骨格を詰める。
話が噛み合わない人達がいることを知る。
あとテストがあったね。微妙だった。

3月
中間報告会やら、新歓準備やらで忙しかった。

4月
新歓。精神的に非常にまいる日々が続く。
とりあえず人数が確保できそうで安心する。

5月
BBQとか汚点を残した新歓合宿とか。
新入生がやたらと面白く優秀で非常に心強かった。
とはいえこの辺で(昔から?)2年生間の人間関係でプチ波乱。

6月
学PとかpreGEILとか、上からの圧力とか。
新入生のヤル気に焦りつつ、上からの圧力に胃を痛めつつ
preGEILがドカンといって、人間関係の修復にさらに心を痛めつつ、
しばらくしてみれば、雨降って地固まる。

7月
応募者過去最高を記録して嬉しいものの、協賛金が集まらず焦る。
ケースの骨格も大きく変わって難しくなる。
テストは結局無理無理で、4単位しか取れず、先行き不安感が漂う。

8月
ほとんどケースを放り投げて他のところに注力しつつ、
アクシデント発生で一瞬絶望するも、メンタルの神さに尊敬を覚える。
まぁとにかくお仕事連発。さすがにPもおしゃべりだけじゃ立ち行かなくなる。

9月
コンテストで寝る。最後にかっこつけて終わる。
打ち上げ合宿でだらだらし、
その後高校の友達と箱根でグダグダする。
言行不一致甚だしい。

10月
フィードバック資料作りになぜか燃える。
同時に精神的充足が得られなくなる。

11月
OBの紹介でバイトを始める。
「結局仕事しないとダメなんだな」というニュアンスで語られる。
ゲームの規則」を見て感動する。
京都に行き多少安らぐ。

12月
バイトに明け暮れる。アルカディ・ヴォロドスピアノリサイタルで感動する。
中山競馬場ディープインパクトを見に行って少し感動する。
今に至る。

以上ざっくばらんに振り返る、以下ちょっと詰めて振り返る。




去年はどちらかといえばとにかく走ってた気がするのだが、今年は少し立ち止まって周りを見たというようなイメージがある。人間関係についていえば、何人かから大きな影響を受けたことは間違いない。


GEILの委員長という仕事をやってきたがゆえに、個人的にはキツい時期も結構あり、何度もやめようかと思ったりしたので、「何のためにやっているのか」とかを考えるようになり、それがGEILの中身ともシンクロする形で、「どう生きてくるのか」ひいては「いかにして生きるのか」というようなことを深く考えるようになった。
←「あぁそれは病気だね」byKさん


いかにして生きるのかということを考える中で、いろいろモデル化、単純化して考えることが多かった。人はみな長いスパンで自分の将来を考える上で、行動規範なり理想像なりを作り上げて、それに出来る限り沿った形で動こうとする。それは金を稼ぐでも、楽しく生きるでも、家族と幸せに生きるだったりするわけだが。そして社会に出て、勝負が始まり、買った負けたなり、貫いた妥協したなりの連続で結果として挫折や環境の変化によって、行動規範や理想像を変えていくことになる。それはおおむね過去を正当化、運命化したり、成長視観で観ることによって、規範や理想像が正当化されるのである。


話は若干それるが、GEILにおいては、コンテストを刹那的に
「よかった」と感じるれるように気を配った。人間、長い時間ないしは労力をかけたものについては、正当化して考えようとする傾向があるように考えているため、刹那的に感じる感情をポジティブにすることで、過去を正当化しない形で振り返ることができると考えているからである。




さて、2つ上の段落は、見てわかる通り非常に空虚な文章である。当然ながら「お前は何を知ってるんだ」という詰問に対してなす術が無いためで、何も行動を起こしていないのに、わかったようなことは言えない。いつぞやの挨拶ではないが、動くことによって見えるものがあり、その過程で考えていく中で、自らの生き方を模索していくという考え方にはある程度の説得力があり、「いかにして生きるか」という問いは、文字通りの意味での「生きるために生きる」という地点で決着するように思える。

がこれらいままで書いてきた発想は非常に西洋的な、いわゆる「個人」を前提とした、さらにいわゆる先進国にいること基づいた考え方である。
ここまではいいが、この先は自分の様々な力及ばずに書くことができない。


てなわけでいかにして生きるかということが、やはり解決されないわけだが、では学問はどうかといえば、
『それぞれの学問分野が当初の「いかに生きるべきか」という問いから遊離したことは国家や成立しつつある社会にとっては歓迎すべきことであった。倫理的要素を排除したところで営まれる学問は単なる知識の集成として国家や社会にとって望ましいことだったからである』
『教養とは何か』阿部謹也著 より引用

ということについて注意を向けつつ学ばねばならない(のだろうきっと)。しかしながら、授業での教授陣のちょっとした発言にも救われるわけです。

『作品を出すということは、世の中に場所を空けてもらうということで、自分の出した作品によって生じた影響があるわけだけれども、「その責任はとれない」という負い目の責任を負うってことだと思うんです』
言葉が正確じゃ無いので本名書きませんが、byT先生であります。


結局、問いに対して答えが出ないのだが、
年長者から話を聞いたり、そして動いたり、学んだり、方法はいろいろあるわけだけれども、結果として感じたことが自身を持って体現されていることこそがそれであり、聞かれない限り、あまり人にとやかく言うものでは無く、ましてや押し付けることはもってのほかであろう。


というのが2006年年末時点での考え方である。
非常に尻切れトンボで、今の自分をまさに
象徴している文章が今年の最後に書けて満足している。
ということで、これをもって来年の抱負としたい。
読むこと、伝えること、書くこと ですね。

それではみなさんよいお年を、、、